仰木彬時代〜近鉄バファローズの歴史5〜
【第13代】 仰木彬(1988〜92)
近鉄で長年コーチ活動を続けていた仰木が監督に就任。
仰木は伸び盛りの若手を積極起用。山崎慎太郎・吉井理人あたりが台頭してきたのもこの時期。
この年は86年を凌ぐ西武との熾烈な優勝争いを展開。
9月初めには絶望的なゲーム差をつけられるのだが、そこから神がかり的な進撃で一気にゲーム差を縮め、逆転優勝の目が出てくる。
川崎球場でのロッテとの残り2試合(ダブルヘッダー)に連勝すれば逆転優勝という条件で戦いを挑む。
規定により延長戦なしという過酷な条件ながら第1試合を9回に決勝点を挙げ勝利。
第2試合も8回に1点リードを奪うが、リリーフしたエース阿波野秀幸が高沢秀昭にまさかのホームランを浴び同点に。
9回ロッテ有藤監督の猛抗議で時間を割かれ、当時の規定により延長10回時間切れ引き分け。
わずか2厘差で西武の4連覇を許した。この死闘は「10・19」として近鉄ファンのみならず、プロ野球ファンにも後史に語り継がれる名勝負となった。
翌89年、エース阿波野、主砲ブライアントを軸に前年の借りを返すべく臨んだ。
しかし、開幕ダッシュに成功したのは何と阪急を買収した新生オリックス。
「差し」の強い王者西武も夏場から上昇し、パリーグは史上空前の「3つ巴」のサバイバルレースに。
その中で10月初め、近鉄が先に脱落の危機を迎えるが、バファローズの優勝を願って逝った佐伯オーナーの想いに奮起し、踏みとどまる。
そして迎えた10月12日の西武との敵地でのダブルヘッダー。
劣勢だった第1試合をブライアントの3連発で奇跡の逆転勝利。
郭・渡辺久といった西武が誇る当時日本最強の2枚看板を粉砕しての勝利だった。
勢いに乗った第2試合はブライアントの前試合から続く4打席連続アーチを合図に打線が大爆発。
大勝で西武の自力優勝を消滅させた。そして翌日、今度はオリックスが川崎球場でロッテに逆転負けし、近鉄にマジック1が点灯。
そして10月14日本拠地藤井寺で仰木監督が宙に舞った。
日本シリーズは巨人と対戦。シーズン中の勢いそのままに近鉄は藤井寺での第1戦・2戦を勝利。
さらに敵地での第3戦も加藤哲郎の好投で3連勝。一気に初の日本一へ王手をかける。
しかし、「巨人はロッテより弱い」事件で激怒した(?)巨人の反撃に合い、第5戦吉井理人が巨人の主砲原に満塁弾を浴びて形勢逆転。
藤井寺に戻っても勢いを食い止めることは出来ず、まさかの4連敗。またも日本一をあと一歩のところで逃す。
連覇と悲願の日本一を狙うチームはそのオフ、超大物新人野茂英雄をドラフトで8球団抽選の末、仰木が引き当て見事獲得。
しかし90年、チームは開幕戦を逆転勝利で飾るも2戦目から何と9連敗。野茂の超人的な成績で尻上がりに調子を挙げ最終的には3位に滑り込むも、西武の独走を許した。
阿波野・ブライアントの不調が響いた。
翌91年になると阿波野は完全低迷期に入る。
その分、故障で苦しんでいた小野和義がカムバック、野茂が完全にエースとなり、赤堀元之という新ストッパーも誕生。
ブライアントは途中で故障離脱となるが、トレーバー・石井浩郎らの活躍で西武との激しい優勝争いを展開。
9月初めには西武とのゲーム差を広げ、2年ぶりの優勝が近づいたかに見えたがここから西武の大逆襲にあう。
藤井寺での直接対決3連戦に3連敗して一気に形勢逆転。結局西武の逆転2連覇を許した。
92年は夏場に西武に首位を明け渡すと、ジリジリとゲーム差を広げられ、独走を許した。
赤堀が日本を代表するリリーフエースに成長したのを見届け、仰木監督は退団。
阿波野の復調もあり、前途は明るい・・・はずだった。
近鉄バファローズチーム成績
■仰木彬時代(1988〜92)
1988年 2位 74勝52敗4分 .587
1989年 優勝 71勝54敗5分 .568
日本シリーズ敗退(対読売3勝4敗)
1990年 3位 67勝60敗3分 .528
1991年 2位 77勝48敗5分 .616
1992年 2位 74勝50敗6分 .597