吉井理人〜近鉄バファローズ名選手14〜
和歌山の名門箕島高校で甲子園にも出場し83年オフのドラフト2位で近鉄に入団した。キレのいい速球で押す強気の投球が売りで2年目に一軍初登板を果たすと、5年目の88年に仰木彬新監督のもと、石本貴昭に代わる新ストッパーとして大抜擢される。吉井は抑えとして大車輪の活躍を見せ、10勝24セーブの好成績を挙げ、最優秀救援投手賞を獲得する。しかし、あの「10・19」に第1試合・第2試合ともに登板したがいずれもエース阿波野秀幸のスクランブルリリーフを仰ぐ事となった。
翌年も5勝20セーブと抑えとして十二分の成績を残し、チームの優勝に大きく貢献したが、10月14日の優勝決定戦で最後のリリーフは吉井ではなく、またもエースの阿波野だったことにプライドを傷つけられた吉井はベンチ裏で怒り狂っていたというエピソードがある。89年の日本シリーズ第5戦では阿波野をリリーフして不振を極めていた読売の主砲、原辰徳に満塁本塁打を浴び、結果的にはこれがシリーズの流れを大きく変えてしまった。
翌年以降はリリーフとしての蓄積疲労か数年不振のシーズンが続いたが、93年からは先発に転向し、活路を見出しかけていた。しかし、94年オフにヤクルトの先発の一角西村龍次との電撃トレードが決まり、ヤクルトへ移籍。吉井にとってはこれが転機となり、野村克也監督のもと、先発として初の2桁勝利をマークし、ヤクルトの日本一に大きく貢献した。ヤクルトで3年連続2桁勝利をマークした後、FA権を取得。読売のVIP待遇を蹴り、メジャー挑戦を表明。メジャーでは3球団を渡り歩き5年で32勝をマークした。
2003年から日本球界に復帰。2004年オフ、球団合併と共に一度は戦力外通告を受けるが、合併球団オリックス・バファローズの新監督に就任した仰木彬に拾われ、異例の再雇用。近鉄時代は確執も噂された二人であるが、これを意気に感じた吉井はこの年6勝をマークし、復活を果たした。2007年途中にコリンズ監督の中継ぎ降格指令を拒否し、移籍志願。結局移籍先のロッテでは活躍出来ず、現役引退となった。ヤクルトやメジャーでのブレイクのきっかけとなったフォークは仲の良い野茂英雄から教わったらしい。
近鉄バファローズ時代の成績
■近鉄在籍期間:11年(1984〜94) 在籍率52%
■近鉄時代通算成績:
232試合登板
40勝31敗61S(セーブ数歴代3位)
防御率3.72
投球回数520
奪三振294
※在籍率・・・プロ入団から2004年の近鉄消滅までの近鉄在籍期間の割合。