山下和彦〜近鉄バファローズ名選手15〜
かつて近鉄には梨田昌孝という球団史に残る名捕手がいた。79、80年のV2に大きく貢献した梨田であったが、年齢からくる肩の衰え、打撃の低下は否めず、80年代中盤の近鉄は梨田に代わる後継者を育成しようとしていた。
近鉄は早めの時期から高卒の有望捕手光山英和、古久保健二らを獲得し、英才教育を施していたが、捕手ほど育成の難しいポジションは無く、まだまだ二人が梨田をおびやかすような存在にはなっていなかった。
そこで近鉄は84年のドラフトで九州の社会人チーム新日鉄大分で名前が知れていた山下和彦をドラフト4位で獲得。即戦力捕手を補強してチームの捕手層の活性化を図った。
山下の特長は優れたディフェンス力にあった。巧みなリードと安定したキャッチング、そしてキャッチャーとして十分な肩を擁していた。山下が梨田から正捕手の座を奪うのにそう時間はかからなかった。2年目の86年あたりから頭角を現し始めると87年には完全に正捕手として一軍に定着した。
また山下の存在は若手の光山、古久保にも少なからず影響を与え、控え捕手としてではあるが彼らも高卒捕手としてはかなり早い時期での一軍経験を積むまでにレベルアップしていた。打撃力はお世辞にも「ある」とは言えなかったが、意外な長打力はあり驚くような場面で貴重な活躍をみせていた。
また詳しいエピソードは忘れたが、アマ時代にまむしを食べていたとか何かで山下の応援歌は「かっとばせ、まむしパワーだ、やーまーした」(アンアンアン、とっても大好きドラえもん調)であった。当時は阿波野秀幸、村上隆行といったイケメンが増えていた近鉄にあって山下のような「ザ近鉄顔」は近鉄ファンの心を和ませた。
89年、近鉄は前年の悔しさをバネに9年ぶりのリーグ優勝を果たす。10月14日の藤井寺球場の優勝決定戦の9回、阿波野が奪った三振、ウイニングボールをしっかり受け止めたのは山下であった。阿波野-山下のコンビはこの年の紛れも無く球界一の黄金バッテリーだったといっても過言ではないだろう。
しかし、翌年の黄金ルーキー野茂英雄入団から山下の試練が始まる。力を着実につけてきていた光山と野茂の相性が良く、野茂登板時は光山がマスクを被る事が多くなった。また光山の長打力は魅力で仰木彬監督は積極的に光山を起用しはじめる。また古久保の存在も山下のお尻に火をつける。
厳しい正捕手争いの中、怪我も多かった山下は次第に出場機会が減っていく。ただ打撃には渋さが加わり、一時期代打としてチームの天敵星野(元オリックス)キラーとして名を馳せた時期があった。
95年鈴木啓示監督の政権の構想から外れ、日本ハムへトレードとなる。
当時の鈴木監督のトレード戦略は尽く裏目に出ており、例にもれず山下も近鉄戦で攻守にわたり結構いい活躍をし、近鉄ファンは「何で出したんや」と愚痴る日々が続いた。その後、横浜で現役生活を終えた山下はその後コーチ修行を積む。2000年代は近鉄や楽天でバッテリーコーチとして的山哲也や藤井彰人らを育てた。
近鉄バファローズ時代の成績
■近鉄在籍期間:10年(1985〜94) 在籍率71%
■近鉄時代通算成績:
676試合出場
打率.221
29本塁打
141打点
4盗塁
※在籍率・・・プロ入団から2004年の近鉄消滅までの近鉄在籍期間の割合。