鈴木貴久〜近鉄バファローズ名選手25〜
80年の優勝を最後に優勝から遠ざかっていた80年代中盤のバファローズ。
強打を誇った打撃陣もV戦士が第一線を退き、完全な過渡期の時期に入っていた。
「第2黄金時代」を作ろうとバファローズの優秀なスカウト陣は全国各地にアンテナを巡らせた。
その時、スカウトの目に止まったのが北海道の社会人チームでプレーしていた鈴木貴久だった。
鈴木貴久が頭角を現してきたのは2年目の86年。代打でプロ初出場を果たし、いきなりその打席で2塁打を放っている。
少ない代打のチャンスを確実に生かし、いつの間にかレギュラーにかけあがっていた。
以後は金村義明や村上隆行といった若手と共にバファローズの打線の中軸を担うようになり、毎年コンスタントに20本塁打を放った。
鈴木貴久の特徴は数字にはあまり表れない印象度にあった。生涯成績は数字だけを見ればさほど大した成績とは思えないが、打率2割5分前後であろうと、鈴木貴久は誰も打てない強敵が出てきた時に打って突破口を開いたり、「ここで打って欲しい」という場面で打てる驚異的な勝負強さがあった。
選手生活の晩年こそ、DHや代打が多くなったが、全盛期はライト鈴木貴久はほぼ不動であった。
体型から見てもお世辞にも足が速くはなかったが、打球の判断が良く、「第一歩」が速いので足の遅さを十分補える守備範囲を誇った。
象徴的な場面は89年10月14日の優勝決定戦の最終回の守備。 ダイエー山本和範の放ったライトへの大飛球をジャンプで捕球。そのまま藤井寺球場のライトフェンスに激突するも、ボールは決してグラブから離さなかった。
鈴木貴久の守備センスと根性を象徴している。
良い場面で打っている鈴木貴久であるが、あの伝説の「10・19」でも主役級の活躍を見せている。
第一試合。先制されるも鈴木貴久のホームランをきっかけに追いつき、3−3の同点で試合は最終回。
当時の制度上、ダブルヘッダーの第一試合に延長なし。 連勝しか優勝の道の無い近鉄は「最終回無得点=優勝消滅」という極限状態に立たされていた。
1アウトながらランナーを2塁において鈴木貴久はライト前へ強烈なヒットを放つ。
2塁走者は代走俊足の佐藤純一。 鈴木貴久殊勲の決勝打・・・と思いきやライトの思わぬ好返球に佐藤が急ブレーキ、三本間に挟まれ無念のタッチアウトとなってしまう。
しかし絶対絶命の場面で代打梨田昌孝のヒットでキャッチャーのタッチをすり抜けた鈴木貴久が奇跡の生還を果たす。
この激走がなければあの「第ニ試合」の感動は無かったのだ。
90年代前半もコンスタントな打撃成績を残し、すっかり欠かせないレギュラーになっていた貴久であるが、30を過ぎると怪我に苦しむシーズンが続く。
それでも97年の大阪ドームでのこけら落としの試合では記念すべき大阪ドーム第1号を放つなど、相変わらず良い場面で良い仕事をする「職人」であり続けた。
そして2000年、静かに現役生活にピリオドを打った。
引退後も二軍の打撃コーチとして近鉄一筋の生活を送る。 90年代にかけ、フロントや監督の確執からどんどん主力選手がメジャーや他球団へ移籍していく中、鈴木貴久は近鉄一筋を貫いた。
しかし、2004年5月急性気管支炎でコーチ在職中に急逝。まだ40歳、早過ぎる死であった。若手からの人望も厚く、大西宏明や山崎浩司といった選手がファーム時代に鈴木貴久の指導により急成長し、現在の一軍での活躍につなげている。
近鉄バファローズ時代の成績
■近鉄在籍期間:16年(1985〜2000) 在籍率100%
■近鉄時代通算成績:
1501試合出場(歴代7位)
打率.257
192本塁打(歴代7位)
657打点(歴代7位)
33盗塁
※在籍率・・・プロ入団から2004年の近鉄消滅までの近鉄在籍期間の割合。