近鉄バファローズ史上、間違いなくNo1の大投手。元々は右利きだったが父親の指導により、左投手として育てられる。兵庫育英高校で剛腕サウスポーとして名を馳せた。ドラフト前は地元阪神タイガースからの1位指名が目されていたが、結局阪神からは指名されず、近鉄が 2位指名した。
高卒新人ながら1年目から非凡な才能をみせ、いきなり10勝。2年目には21勝を挙げ、名実ともに近鉄のエースに。以降は5 年連続20勝をマークすると、近鉄のみならず球界を代表する大投手に登りつめる。
しかもこの数字は当時はパリーグの超お荷物球団と揶揄されたチーム力におけるものであり、鈴木は150キロを軽く越えていたと言われる剛速球一本槍で挙げたものであるからさらに凄いものなのである。田尾楽天レベルのチームでほとんどストレート一本で20勝を挙げる・・・さすがにダルビッシュや松坂でも無理であろう。
そういった投球スタイルであった為、ホームランはよく打たれ、通算560被本塁打は未だ破られていないプロ野球記録である。その反面、奪三振王に輝く事、8回。いかに全盛期の鈴木が真っ向勝負であったかがわかる数字である。
しかし、ほぼ毎年投球回数300イニング前後という登板過多により、72年以降は急速に球威が衰え、3年連続で20勝を割る(それでも常に2桁勝利はマークしていたが、それが物足りないと感じさせるほど次元が違った)。
74年に近鉄の監督に就任した西本幸雄の技巧派の勧めに最初はプライドが許さなかった鈴木であったが、徐々にその通りにモデルチェンジし、75年に見事4年ぶりに20勝をマークし、再び輝きを取り戻す。
ところが、チームが悲願の優勝そしてV2を達成した79・80年シーズンは再び低迷期に入り、大勝負に強かった井本隆に日本シリーズ開幕戦の先発を奪われる。81年にはプロ16年目にして初めて2桁勝利を逃す(5勝11敗)。
しかし、300勝達成が近づくにつれ、鈴木は奮起。翌年から再び3年連続2桁勝利、そしてついに84年5月 5日の日本ハム戦で見事300勝を達成した。一度は限界説もあったところからの偉業の達成に。鈴木を起用した公共広告機構のCMでの「投げたらアカン」は 85年の流行語大賞となった。
その年、シーズン途中で本当の限界を悟った鈴木は引退を表明した。その後、解説者生活を経て近鉄の監督に就任する(監督時代についてはここでは敢えて触れない。「草魂」のニックネームは第2世代(仰木監督時代)以降のファンからはマイナスイメージとしてしか捉えられない)。背番号「1」はパリーグ史上初の永久欠番となった。まさに選手としては記録に残る大投手であることは間違いない。
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