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近鉄バファローズの名選手

近鉄バファローズ名選手:チャーリーマニエル

近鉄球団史上に残る屈指の助っ人外人。

メジャーリーグでは目立った実績のなかったマニエルであったが、76年にヤクルトに入団すると日本に慣れてきた2年目には42本塁打。さらに3年目の78年には39本塁打103打点の活躍でヤクルトのリーグ初優勝と日本一に大きく貢献した。

しかし、守備・走塁に難があることが当時の広岡監督に問題視され、そのオフに電撃的なトレードにより近鉄へ移籍する。ヤクルトからはマニエルと永尾、近鉄からは主戦投手であった神部年男ら3人という大型トレードであった

守備に不安があったものの、指名打者制のあるパリーグでは問題はなく、自慢の打棒はいかんなく発揮される。

近鉄入団1年目の前期開幕から打ちまくり、近鉄は首位を独走。前期優勝は間違いないと思われていた6月、ロッテの八木沢荘六からアゴに死球を受け、負傷。診断は全治3ヶ月という重傷であったが、何とマニエルはわずか14試合の欠場で復帰。フェイスガード付きのヘルメットで登場する鉄人ぶりであった。しかし14試合の欠場とはいえ、マニエルの抜けたチームへのショックは大きく、近鉄はその間大失速。前期最終戦で奮起し何とか前期優勝にこぎつけた。いかにマニエルの存在が大きかったかということである。

そして、プレーオフを制した近鉄は悲願のリーグ初優勝を遂げる。マニエルは前述の怪我の影響もあり97試合の出場にとどまりながら37本塁打を放ち本塁打王に輝く。翌80年は48本塁打129打点という驚異的な成績を残し、本塁打王、打点王の2冠を獲得し、チームのV2に大きく貢献した。

しかし、指名打者制のない日本シリーズでは広岡から指摘された守備・走塁の弱点が大きく露呈してしまい、打撃でもあまり貢献は出来ず、2年連続で敗退してしまった。

80年オフ、複数年契約を主張するマニエル側と単年契約主張の球団側の交渉が決裂し、近鉄を退団。ヤクルトへ復帰するも81年シーズン限りで引退した。81年シーズンの近鉄はマニエル退団の影響もあり、V2から一気に最下位に沈んだ。

守備等を酷評された広岡に対しては批判的だったマニエルだが、西本監督とは仲が良く尊敬の念を抱いていたという。愛称は「赤鬼」。引退後は指導者としての道を歩み、数々のメジャーリーグの監督を歴任。2008年にはフィリーズを率いてワールドシリーズを制覇した。

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